先日友人とお茶を飲みながら、なんとなくの日々の事を雑談。
そんななか友人が
「ちゃんと伝えようという意識で相手に話したら
思いがけない展開でいい感じに事が済んだ」
という体験を話してくれて
「意識が変わればその瞬間から流れは変わるよね」
「言葉にした時から現実は変わるよね」
と、「んだんだ」と頷き合い、
そして、数日前に見た私の夢の話をしたら
そこにも
「諦めないで伝えることは大切」というメッセージを友人は受け取り、
私も「そうだねーーそうしよ♡」
と更に頷く。
ということがあった。
ところでこの「伝える」という事柄は
意識すれば意識するほどに迷宮に入る部分だし
本来は「呼吸」のように意識しないのが自然なんだろうと思う。
だけども、
話すことが苦手だったり(意識が飛びがちとか、緊張するとかいろいろ)
変人過ぎて一言発する度に引かれる体験が常態化していたら、
普段の意識にのぼらないくらいに意識しまくって
どこかのタイミングで「翻訳機」を自分に取り付けてしまうこともある。
自分が感じている感覚を、大多数と思われる感覚に寄せたところで表現してみる。
自分が知っていると思うことを、日頃手に取れるところにあるものを代用して表現する。
自分が思うことを、その場の視点と要望に合いそうな座標から言ってみる。
などなど。
相手にちゃんと伝えたい、違いがあるからこそちゃんと補って正しく伝えたい。
そんな想いからだけど、そもそもの「こうだろう」というのがいつもいつも「合っている」とも限らない。
そうすることで、伝わったところもあるだろうし
そうすることで、本当のところから少しずつズレていって、結局何も届いていなかったということもあるだろう。
自分を振り返ると、玉石混淆でくじ引きみたいなコミュニケーションになっていたのかもしれないなと思う。
これからは当てもんみたいなコミュニケーションはやめて、
当てにいかない「嫌われる勇気」で臨む、翻訳機無しの言葉を発していこうと思う。
この場合の「嫌われる勇気」っていうのは、
意思表示をはっきりするというより、「意味不明過ぎて引くわ~~~~」という反応に反応しない、な方なんだけど(笑)

そうしようと思うだけでも、意識が肚に降りていくのがわかる。
自己の一致、への過程ですね。
むかーしある友人が
「言葉なんて面倒くさい。早くテレパシーで全部伝わるようになればいいのに」←本気のコトバ
って言っていた時、
私はいろいろ諦めていたから
「いやーそれはここでは無理でしょー。一部できるかもしれんけど、とりあえず今世くらいでは無理っぽくない?やっぱり言葉で伝えなきゃ」
と答えたんだけど、今なら少し違うのかも。
「これからも言葉は使うけど、
もっともっとテレパシックに伝わることの方が増えるんだろうね。それも誤差無しに」
という風に。
自分を観止め受け入れる幅に比例して、
本当の意味での「違いを受け入れる」ということが深まるいう部分、
かなりじっくりとやらせてもらってます。
(取り組みを自覚するようになってもう6年はたつよ)